昭和54年01月31日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話しにしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 只このお言葉をそのまま頂けば、分るのは分るけれども、これを仲々自分が頂くという事になると大変難しい御理解ですね。確かに金光大神の教えというのは、私は人間が本当の幸せという事は、本当に徳を受けての生活。その徳を霊の世界にまでも持って行けれるという、私は教えだと思うです。ですからそういう教えを身に付けさせて頂くなら、確かに限りない。いうなら尽きぬおかげが頂かれる。そういう教えなんです。
 だからそういう教えを教えとして、自分の身につけるという事は、なかなかもって難しい事だと思うです。ね。ただ成程お願いに参ります。必ずおがげの印が見えたり、おかげを受けたりいたします。ですからその、あらたかな神様ですよと人に、例えば同病相憐れむで、自分が助かった事を人にも伝えていく。そんなら私もいっちょ参ってみろうかと言うて、お参りをされる。けれども、金光大神が教えた事を、違わぬようにと言う事になると、大変難しい。
 なかなか違わぬように頂けない。そして真の信心をさせるのが神への御礼ぞ。という事になると、もいよいよもって難しいんです。只導いたと言うだけで、その人に真の信心をさせなければならん。為には私自身が真の信心を頂かなければならない。ね。まその真の信心でもいうなら簡単に言うとです、ね、いうならおかげ信心から信心が分る、信心が頂けると言う事が、有り難いと分ったら、も真の信心の入り口を言われるのですからね。そういう信心を人にも伝えていくという事は、仲々もってむつかしい。ね。
 神様の御礼という昔から言われますように、人のお供えが一番、神様は喜ばれるという。いうならば、今の合楽の言葉で言うと合楽示現活動だとね。いわゆるお導きなんです。だからお導きというのは、もうピンからきりまで。只、お導きをすると言うのですから、その気になれば誰でも出来ますし、精進も出来ますけれども、真の信心をさせるのが神への御礼という事になると、大変むつかしい。
 自分自身が、真の信心を頂くまでがむつかしい位ですからね。だからもう、難しいからと言うて、もうサジを投げたり、そげなん信心な頂かんでよかというたら、もうだから昨日の御理解ですよね。ま一生が修行じゃという事になりません。その一生が修行というのも、有難う楽しう出来る手立てを合楽では説くのですから。ね。いよいよそういう手立てを身につけさせて頂かなければなりません。
 昨日、池田恵子先生が今朝からお夢を頂いたと言うて、お届けに来ました。それはどういう事を頂いておるかと言うと、光昭先生から紫の花のいっぱい咲いておる、それを丸く、こう輪にしてね、あのハワイあたりでレイと言うですかね、あんな風にして紫の花、ね。首にかけて頂いてる所を頂いた。そしてその次に、オ-ストラリア布教と頂いたげな。結局その光昭という事は、光という事だと思うんですよね。光昭の昭という字は、点々と打てば照るてる。
 輝きの照るというけども、光昭というのは建設という意味があるのです。いうならば、光の建設という事にもなるわけですね。光昭という事は。ね。結局自分の心に光を。それはどういうと言うと、紫の花の輪ですね。いうならば安心のおかげという事です。安心そのものが光なんです。ね、家の中でも、どんな事があってもお父さんの信心というなら、お父さんと信心というか、中心になる人の信心。
 昨日、そこの久保山さんが頂いておられるのも、信心を頂いたらまず、家の芯になる、家の一家が明るうなるというおかげを頂いてね、次には、村全体の芯になるような信心をせよという、お知らせを頂いとられます。ね。ま私共の信心が本当に、そういう信心に段々進んで行かなきゃ、いうならば、世界の光ともなる程しのね、おかげと。というのも、いよいよその安心のおかげが、広がりに広がっていく事だと思います。ね。同時に世界の隅々というかね。
 桂先生が世界万国にこの教えを広げたいと、こう言うての願いでおありになったという事ですけれどもね。安心の光を心に頂けたら、もうどこに行っても、いうならば道が開ける。ね。その内容が、なら合楽理念のマスタ-という事になる。ね。合楽理念を体得する。そして覚える。それから合楽理念そのものが有難い。先日から、高松和子さんから分厚い手紙が参りました。それにはこの頃、ある偉い先生を中心にして、その討論会があった。それで渕上君が合楽理念について語った。
 それがものの見事にその合楽理念を、やはりマスタ-しておる。ね。もう一通り親先生が言われるような合楽理念を語って、みんなに感銘を与えた。私も大変うれしかったという、その手紙が来たんです。ところがその日の学院から電話がかかって来たんです。で若先生が受けたところが渕上君が朝の御祈念に出らないから、暫く合楽に帰そうと思うとるという電話がかかてきた。いうならどげん言うたっちゃ、言うこと聞かなかったり、成績が悪かったりするなら、教会に帰されるわけですよね。
 だからそちらから何とか言うてくれと言う訳なんですよ。で、私それから思いました。ま本当にタイミングよう渕上君が、こんなに素晴らしいと言うて、まあ有難かったという和子さんの手紙と、その学院の先生からの電話と同じ日じゃった。だからここに思わして頂くことはね、どんなに理論上合楽理念を覚えとる、わかっとる人にもお話しが出来ると言うてもです、自分自身が朝参りもせずしといて、信心をしっかりやんなさい、金光様の信心な朝参りからですよと言うても、人は聞かんという事です。ね。
 してみるとなら昨日あたりの御理解がです、いうならその、朝参りなら朝参り信心がもう有難いものになってこなければ、出来る事じゃない事が分ります。それで私若先生に私が言うてやったち言うと何だから、今日はね高松さんから手紙が来てから、あんたが合楽理念について、ま話したという事を大変喜んで手紙が来たが、本当に有難いことだという事を言うてやれと私ハガキに。そして合楽で親先生がいつも言われるように、朝のひと時というものは、もう昼の三時間にでも、匹敵する程しなおかげなんだから。
 朝の時間だけは大切にせろよという事を、最後に書いておけと言うて手紙を出させました。それを只朝早起きをせよというだけだったら、はあ学院から言うちきたばいの思うちゃならんと思いましてね、丁度その日に和子さんの手紙が来たから、その事が嬉しかったという事を言うてやると同時に、いよいよ合楽理念を地で行かなきゃいけない。そのためにはまずとにかく合楽で例えば、修行生が朝の御祈念にも出ないような事では、合楽で修行する値打ちはないよと、私は昨日皆んなにもその事を申しました。ね。
 と言う様にです、やはり金光大神の言う事に、どこもここもを違わぬようにという事は仲々出来ません。けどもここだけは親先生が言われる事を実行しとる、ここだけは金光大神の教えを守らして頂いておるというならば、信心からです、ね、私は始まらなきゃいけないと思うです。そうするとどういう事になるかと言うとですね。もあの氏子はあそこだけは間違いないという、神様の御信用が起って来るです。他の事は出来んばってん、もこの人が朝参りだけは絶対だと。
 朝だけはこの人は大切にすると言うて神様がね、そうでしょうが。人間でもこの人はここだけは間違いない人だという事が、その人の信用というのは、そこから始まるです。どんなに素晴らしい言うても、何とはなしにです、信用の出来ない。いうならしだこだにすると、それから例えいろいろな事が出来ておっても、もう信用がそこからくずれてくる。出来んばってん、これだけはこの人は間違いなしにやるというところから、いうなら信用が頂けて来る様になり、いうならば神様の御信用を受けるという事が。
 そのままお徳ですから、それを広げていく楽しみも、喜びもそこから生まれてくる。ですからね、安心のおかげというのはね、神様に安心してもらえる氏子に、お取立て頂くという事。ね。神様があの氏子はもう大丈夫と安心なさった時に頂けるのが、照りかえってくるのが、私共が言う安心の大みかげなんです。ね。私共が安心のおかげを頂いた時にです。私は今日はどういう意味か、ひとつも分らなかったけれども『無念残念』という事を頂いたんです。
 だからも本当これ程の有難い教えを頂いておって、実行しきらんちゃ、こげな残念な事はなか。もうあげん一生懸命信心しよって、有難い有難い。もう親先生に命あげてもよか。ちいうごたるとが、すとっと信心をやめてしまうような人がある。こんな無念な事はない。とね。もう残念だ無念だと言うてる間は、神様は安心して下さらない。成程無念な事も残念なこともありますけれども、それを無念残念と思わずにですね、私のせいとして、私が至りませんとして、私のところへその焦点を置くようになりましたら、神様がも安心して下さるでしょうね。
 大丈夫です。どんな事がおこっても、私が至りませんから、私の信心が足りませんから、私の改まりが足りませんから。その事を通して、私が改まります、研きますという事に、そういう一つの信心の、ま、基本といったようなものがね、だから信心させて頂く者の上には、無念残念という事はない。あるとあろうけども、それを無念残念を自分の心の上にもってくる。
 私が至りませんから、あんな素晴らしい信心をしとったのに、ストッと止めました。私の信心がいたりませんから、私の言う事をみんなが、よう聞きません、これは私のところでです、私がそういうふうな頂き方が出来る時に、神様がもう大坪総一郎は大丈夫。どういう事があっても結局、自分が神へ向うていく精進だけしかない。あの氏子はだから出来てしまわなければ安心。という事じゃない。
 昨日桜井先生からお届けが、奥さんの弟さんが朝参りをして見える。もう御両親も信心があるし、ところが仲々いくら言うても信心せん。もう以前に何回か参って来られた事がありますけれども、やり信心がぴんと来んわけです。ところが此頃から、神様をしたわしいものに。と読みましたですね。なつかしむという事を頂いた。あぁいうものが昔、合楽にお参りに来た時に、親先生が丁度書いておられた。
 それを頂いて帰っておられた。それを此頃見せて頂いて、先生がコピ-して持って来て下さったのを、皆さんに聞いて頂いたんですけれども、もう最近は信心がありがたいという事を、もう日々の生活が、有り難くなったと言われるそうです。なさるもうつういっぱいした時なんかは、もうあとは方づけもせんな帰りよったのが、もうどんな場合であっても、実意丁寧にそれを取り方づけて、きちっとさせて頂いて御礼を申し上げて、帰らせてもらう事がありがたい。
 先日は、何か二か所で仕事をしておられるから、車で行く。スピ-ドを出さないと間にあわない。で、つかまった。そして八千円罰金取られた。その時に直感しておられる事がですね、八千円と言われた時に、おかげ頂いたと思うたげな。そりゃもう親先生がいつも言われる八というのは、広がりに広がるとおっしゃるから、ここから広がるばいと思った。もうおしい事もなからねば、残念とも思わなかった。おかげ頂いた。そして八千円を有り難く納めさせて頂いたというお届けが、昨日ございました。ね。
 だからそういう頂き方が出来るようになると、一遍二遍じゃない。一切がですそういう頂き方が出来るようになったら神様が安心。全てをそういう頂き方が出来るようになったら、神様が安心して下さる。必ずその安心は氏子の上に照り返ってくる。それが安心の大みかげであり光であります。それが一つの光の輪にもなったら、それこそ金光大神の言う事を人に伝えていけば、人が助かる程しの事にもなっていくという事でございますね。だから信心させて頂く者の上には、無念とか残念とかという事はない。
 いわゆる、本当の無念になってしまわないかん。残念というのは、まだ思いが残っておるという事。無念という事は、意味がちがいますけども、思う念というのが、もうなくなってしまう事が、無念だという、御理解だったと思うのです。普通で言う無念じゃない。まあだ私には、この念が残っとる。その念がいよいよなくなってくる。そしてあるものはね、結局、私が至りませんからになってくる。家内がどうの、子供がどうのじゃない。人じゃない。
 自分自身のところへ、それをもってこれるようになったら、私は神様が安心。あの氏子はもう大丈夫。ね、あの氏子は他のことは出けんけども、これだけはいうならば、もう安心。これは私と皆さんの場合であってもそうですよ。しっかり出来とんなさるけども、いっちょん安心の出けん人があるです。けども、そげんばさらか一生懸命じゃなかばってん、この人だけはこれだけは、もう間違いないというところから、私の安心の心は、その人に対して広がってくるです。
 やはりおかげを受けるんです。そういう人はね。私共が安心というのは、神様に安心してもらえた時に却って来るのが、安心のおかげだという事でございます。同時に例えばね、つきぬおかげと仰る程しのおかげを頂くという事はね、やはりお徳を受けなきゃならん。お徳を受けていくという事は、私共には無念があってはならん、残念があってはならない。只それこそ無念無念と言う様な気持ちにならせて頂けれるおかげ。それはどういう事かと言うと私自身の手許のところへ、それを持って来るおかげを頂いたらね。
 神様も安心して下さるに違いない。そこから信心が、いよいよ育っていく。だからこの六十一節は容易う頂ける。かと言うて、今日みなさんに聞いて頂いたのは難しい。ところがその難しいという信心に取り組まなければ、信心の味というものは出て来ません。私はこの事を本当に、昨夜体験した事でしたけれども、もう沢山私がジュ-スやらを頂きますから、もうのどが渇く、一気にグ-ッと飲むだけなんですよ。ね。
 ところが、昨日はミカンジュ-スを頂きながら、丁度お茶を飲むようにすすって頂いた。そしたら、このジュ-スは素晴らしいなあという事がわかるんです。だからのどが乾くから飲むだけじゃなくて、味わって飲むという大事なんです。ね。これはお酒でも何でもそうですよ。舌の上に上げて、それをすするようにして頂いてごらんなさい、もう様々な色がようわかるです。ね。皆さんがならおつゆ一つお作りになる。
 でも只舌の上に乗せてシュとやらずにすすったら、その色んな味が舌の上で感じられます。ね。だから玉露を飲む時やらお酒を利き酒する時は、必ずすすって頂く。けれどものどが渇く。いっきにギュ-ッと飲んでしまう。もう味わいも何もあったもんじゃない。合楽の信心はね、そういう意味で舌の上ですすって頂くような、味わい方をさして頂くと、今日の難しい方の信心でなからなければです、味わいがない。という事です。
   どうぞ。